昨日話した事の原本をブログに挙げておきます。
・建築の内と外の境界から生まれる境界線を表現する。
建物があるということは、建物によって内側と外側に空間が区切られている。
人は自分の部屋などの内側では、家具が置かれていたり、着替えたり、寝たりしている。そこからドアを開けて街に出ると、そこでは部屋の中でのふるまいはせずに、必要なモノを鞄に詰めて、道路や歩行者に気をつけて、目的地まで迷わないように考えながら行動している。
その内と外の関係は、どこかで明確に境界線が引かれている訳ではない。たとえば一番近くのコンビニに行く為に、パジャマで行く人もいるし、上着を羽織ってから行く人もいるし、きちんとした格好に着替えてから行く人もいる。
また、自分の家の近くにあるコンビニに行くためだけに、山登りの準備をすることはないし、サンダルで富士山に登ろうとする人はいない。境界線は個人の間隔や経験に左右される事柄であり、人間の共感できる範囲に収まっている。
そしてそれが、建物ではなく、建築という定義によって内側と外側に空間が区切られている場合には、建物よりも大きな共同体や会社、集落や商店街をひとまとめに内側とすることもあるし、建物の部分である部屋や、自分に当てられた椅子と机のワンブースを内側と区切る事もできる。(その場合、外側は”内側ではない範囲”である)
私が表現したいのは、内と外の空間から出来る建築の境界線であり、自分が認識している意識の境界線である。いま自分が内側にいるのか、それとも外側にいるのか、それともちょうど境界線の上にいるのか、開いたままの扉に位置にいるとき、それは両方の世界を認識できる位置にいる。それは人工的に区切られた世界にいる限り、どこにでもある建築の境界線の上にいることになる。
・ここまでが昨日話した事です。
その後の返答は、それはわかるけれど、結局何をするのか言ってない。
(私も何をするのかわからない)
で終了しました。
この後、私は例としてあげたのが、武蔵野美術大学の廊下のことで
「廊下は部屋と部屋との間にあって、部屋の中で何をしているのかはわからないけれど、人のいる気配がして、外に材料や作品が置いてある。一度入った事があれば、どんな人がいるかわかるし、わからなくてもどの学科の人が使っているか知っている。知らない人とすれ違った時も場所や服装で、どこに所属している人なのか思い浮かべてる。」
と言ったような気がします。
椅子は無事(コンセプト的に)完成し、解体しました。
加重の問題は大丈夫でした。10人乗りましたが、軋みもせず、持ちこたえました。
今の所はここまでです。
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